静岡県・浜松市・西来院

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【 概 要 】−西来院の創建は正長元年(1428)、寒巌十三派の月窓派の拠点とする為に月窓義運禅師によって開かれたのが始まりとされます。境内に建立されている月窟廟は徳川家康の正室だった築山御前の廟堂とされ戦災で焼失後、昭和53年(築山御前の400年忌)に再建されました。築山御前は今川義元の姪(妹の娘で義元の養女)にあたる人物で、徳川家康が今川家に人質になっている期間に結婚させられました。当初は主家の血縁関係者だった事もあり丁重に扱われていましたが、永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると急速に今川家が衰退し、家康は織田信長と同盟を結びます。これにより築山御前の立場は一転、さらに家康が側室お万の方を寵愛し、愛息信康には信長の娘、徳姫をあてがわれた事もあり徳川家中でも次第に孤立化していきます。築山御前は武田家の縁のある娘を信康の側室とし、さらに武田勝頼に内通、それを察した徳姫は12の罪状を書き示した書状を酒井忠次に託して安土城にいた信長に送り届けます(築山御前は徳姫との嫁姑の関係が叔父今川義元の仇織田信長の娘である事や、嫡男が生まれなかった事を理由し、複数の女性を強引に信康の側室として迎えさせていた為、異常に悪かったとされ、徳姫から恨みを買っていたとも云われています)。書状をみた信長は築山御前と信康の死罪を求めた為、家康もそれに従ったとされ、築山御前は浜名湖湖畔で斬首(築山御前は信康の命乞いをする為に浜松城に居る家康の元に行く途中、佐鳴湖岸の小藪(太刀洗の池)において、家康から放たれた刺客によって惨殺されたとも)、信康は二俣城に謹慎後に自刃しました。
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